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夜と霧 新板(著:ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子 訳)を読んで。
- 2012-10-02 (火)
- 魂がふるえた
読みました。「夜と霧」。
その存在をはじめて知ったのは、柳澤大輔さんの本「アイデアは考えるな」に出ていたから。興味を持つものの、しばし時は流れ、評判の映画「夢売るふたり」の西川美和さん×糸井重里さん対談での再登場で、読みたい度がいっきに加速しました。
ちょっとおおげさに書けば、この対談の中で、ある意味「震災で命を救った本」という書かれ方をしていたのですね。あ、この対談すごくおすすめです。
少し引用させていただきます。
収容所でひどい経験をした側にも、悲しい、苦しいだけじゃなくて、優しかったり、勇気を持っていたりと、さまざまな気持ちの人がいたということが上手に書いてあります。
もちろん信じられないほど辛いところも見てるんです。起こっていることはものすごいのに、「どこにいるか分からない家族のことを想像してるときには心が穏やかになる」という文章があったりする。
難解ナンデス
わたくしの国語読解力の足りなさもありましょうか、少々難解に感じた部分もありました。わかるところは多少知らない単語がでてきてもズコーン!っと入ってくるのですが、わからないところは文字だけが頭のうわっつらを通り抜けていく〜。文章の構造が複雑なのと、難解な単語が。。
あとがきではじめて知ったのですが、これは「新版」です。意識して読んでいませんでしたが。著者が最初に旧版を発表したのが1956年。それを最初に訳した方がいて(霜山徳爾さん)、そのさらに後の1977年に新板が発行される。その新板を訳したのがこの本とのこと。(内容もいくぶんか違うそうです)。読んではいませんが、そちらの方が難解なのでは。
魂の付箋 11枚
さて、この本、半世紀以上も読み継がれてきたロングセラーというだけあって、おおいなる人生の気づきがいくつも得られました。 その箇所、個人的に特に琴線に触れた逸話、魂の付箋11枚をそのまま引用して、感想を添えたいと思います。
人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい‥‥。(P27)
抑圧する側とされる側。人間のすることとは思えない残虐な行為と、それに耐えることしかできない事実。 そのどちら側も「慣れる」という言葉で説明できてしまうのが人間というものなんですね。 自分のすぐ近くにも存在しているはずの、不正、いじめ・・なんでこんなことが起きているのかというありえない事実。それらも人間の「慣れ」が引き起こしているのかもしれません。
妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた事実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことを得とくした。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にはもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。(P60)
いったいどれほどの境地に立てば「愛」というものを理解できるのか。自分がそれだと思ってる愛というのは、どれほどのちっぽけなものだろうかということを、思い知らされます。
どうせ死ぬなら、意味のある死に方をしたい。どう考えても、医師としてすこしでも病気の仲間の力になれることは、腕の悪い土木作業員としてかろうじて生き、あげくくたばるよりも意味がある。これは単純に比較の問題であって、英雄的な犠牲行為ではなかった。(P81)
極限の状態で自分の生き方を選択する時にどちらをとるのか。情や他人の目など気にしてはいけない。自分にできることがあるのなら、誰かの為になることを選択すればいい。ということを教えてくれます。
ラテン語の「フィニス(finis)」には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして目的だ。(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面的生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは、別の人生の諸相においてもすでにおなじみで、似たような心理的状況は、たとえば失業などでも起こりうる。失業者の場合もありようが暫定的になり、ある意味、未来や未来の目的を見すえて生きることができなくなるからだ。(P119)
未来への希望・目的がないことによる精神の崩壊。身近にも(自分を含めて)プチ崩壊している人はいくらでもいるのではないでしょうか。 人生において成し遂げたい目的を持つこと。それって言い換えれば希望ということばになるでしょうか。
過酷をきわまる外的業件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受け止めず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間には成長は望めない。被収容者として過ごす時間がもたらす過酷さのもとでたかいレベルへと飛躍することはないのだ。その可能性は、原則としてあった。もちろん、そんなことができるのは、ごくかぎられた人びとだった、しかし彼らは、外面的には破綻し、新羅も避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっしたのだ。(P121)
いわゆるポジティブシンキングは成長する。とこんな簡単なことばで片付けていいのかという疑問はでてきますが、ということだと思います。 もうひとつ興味深いのが、「ごくかぎられた人びと」だったということ。この危機的状況においてはそう考えられるのは一部の人のみ。ではどういう人間がそうなれるのか、という部分には触れられていませんでした。
勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係がひそんでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということも熟知している。仲間Fは、待ちに待った開放の時が訪れなかったことにひどく落胆し、すでに潜伏していた発疹チフスにたいする抵抗力が急速に低下したあげくに命を落としたのだ。未来を信じる気持ちや未来に向けたれた意思は萎え、そのため、身体は病に屈した。(P127)
精神的な希望は、生身の身体にも影響する。健全な精神は免疫力を高め、病気に抵抗する力を持つ。極限の状態において、最後に自分を支えるのは心なんですね。なにげない日常であっても、それは同じなのかもしれません。
強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。(P129)
ここでも生きる目的の話。それを端的に一片の格言で表しているニーチェのことばに納得です。
このひとりひとりの人間にそなわっているかけがいのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということを気づかせる。自分を持っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。(P134)
これも続き。生きる目的の例として挙げられているのふたつのこと。仕事と誰かに対する愛。
わたしは未来について、またありがたいことに未来は未定だということについて、さらには苦渋に満ちた現在について語ったが、それだけでなく、過去についても語った。過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」(P137)
経験は宝。経験はどんな力を持ってしても奪われることはない。どんな経験にも無駄はない。ひとつひとつの目の前の経験を充実したものにすることはとても良いことなのでしょう。
この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともでない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。(P145)
僕の今まで生きてきて感じていた素朴かつ大きな疑問に突然光が射した気分です。「まともでない人間」というのが存在するということを、当たり前のようにさらっと言い切ってくれた。性善説と性悪説なんて話が語られることもありますが、この話でいえば、どちらもどこにでも存在している。
収容所の日々が要請したあれらのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。そして、人生には、すべてがすばらしい夢のように思われる一日(もちろん自由な一日だ)があるように、、収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。ふるさとにもどった人びとの経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。(P157)
本編最後の一文です。こんな簡単なことばで解釈してしまっていいものか、多くの困難を経験した人成長し高みへとゆける。
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